この記事をご覧の皆さん、そしてご家族の中に、古河市にあった「鈴木ドレスメーカー女学院」を覚えている方はいらっしゃるでしょうか。
戦後の復興期、昭和25年(1950年)頃に古河市初の洋裁学校として開校し、平成16年(2004年)まで、約半世紀にわたって東本町でその歴史を刻んだ学び舎です。
古河初の洋裁学校「鈴木ドレスメーカー女学院」
創設者は、当時24歳だった私の伯母、田中啓子。

鈴木ドレスメーカー女学院を創設し、学校長を務めた田中啓子。
東京の名門校で師範の免許を取得した彼女が、同じ志を持つ同級生や、洋裁だけでなく社会の変化も学ぶべきだという理念に賛同した社会科の先生と共に、その夢を形にしました。
挑戦を支えたのは、家族の存在でした。祖父は東本町に所有していた土地と建物を無償で提供し、啓子の姉妹たちも役員として経営に参加。記念すべき最初の校舎は、この地域らしい、かつて養蚕が営まれていた建物でした。

設立当初の鈴木ドレスメーカー女学院の校舎。
時代と共に歩んだ、学び舎の半世紀
最盛期には20人から25人もの生徒が通い、その活気に応えるように、手狭になった校舎は立派な2階建てへと建て替えられました。市内や近隣から、バスや自転車で通う若い女性たちの熱気が、そこにはありました。
しかし、時代の変化と共に、ファッションは既製服が主流となります。洋裁の技術そのものよりもデザイン性が重視されるようになり、基礎技術の習得を目指す女学院と、若い生徒たちの間には少しずつ溝が生まれていきました。平成に入ると生徒数は減少し、女学院は静かにその役目を終えることとなります。

そしてこのたび、女学院の歴史を未来へつなぐため、ウェブ上でいつでも見ることができる「デジタルアルバム」を制作しました。当初、跡地に石碑を建てる話もありましたが、より多くの方に、いつでもどこからでも見ていただける形を選びました。
皆さんの家のアルバムに眠る一枚の写真や、ご家族から聞いた何気ないお話。それらは、古河という街の歴史を彩る、かけがえのない記憶です。
【お願い】鈴木ドレスメーカー女学院の思い出をお寄せください

このデジタルアルバムをより豊かなものにするために、皆さんからの情報提供を心よりお待ちしております。特に卒業時の集合写真などが不足しております。
この記事を読み少しでも心当たりがありましたら、ご協力をお願いいたします。
あとがき
伯母は、とにかくシャキシャキした人でした。何かをやる時にサッサと動く、ある意味せっかちなぐらいに。そんな伯母が創った学び舎は、若い女性たちの夢であふれていたと聞いています。
小学生だった私にとって、車酔いのせいで古河への道のりは大変でしたが、学院の教室は興味の尽きない楽園でした。足踏みミシンや業務用のアイロンといった、大人たちの使う道具に触れるのは、特別な時間でした。
伯母と伯父がいつも仲良く迎えてくれる古河。二人はいつでも「古河は良いところだ」と話していました。自分たちの夢を実現できた街として、心から誇りを持っていたのだと思います。
話者:河井良光
取材:相馬はじめ