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「祭礼道」(さいれいみち) ~古河市には江戸時代に“神様のためのバイパス道路”があった!?~

「祭礼道(さいれいみち)」という言葉を聞いたことはありませんか?

 

 私は古河に来たばかりの頃、近所の方からこの言葉を聞き、20年間ずっと気になっていました。

 今回はその”祭礼道”について「古河歴史博物館」立石館長さんにお話をお聞きしました。

 

■お雀さまの大祭

 

古い時代(江戸時代)、古河城下の総鎮守“雀神社(お雀さま)の大祭は、12日間続く盛大で厳粛なお祭りとして執り行われていました。

 

 

 その格式高い祭礼では、お雀さまのご神体は祭り期間中、街中の御仮屋に安置されました。 

 

 御仮屋が設置された場所は、今の古河駅西口を真っ直ぐ進んで古河を南北に縦貫する旧日光街道に重なる場所で、古河宿の本陣の前にあたります。

(「古河城下本陣跡」の石碑があります)

江戸時代は、お雀神社の大祭期間中、旅人は御神体の前を通行することを許されず、参勤交代の大名行列もこれをはばかり、この12日間は、迂回路として「祭礼道」を通行しなければならないといわれていました。

 

 つまり、「祭礼道」は今で言う「バイパス道路」のようなものなのです。

*写真:現在の古河駅西口からの道と日光街道が重なる場所です。

ここからは駅前のマンションもみえる視界の広いところです。

 

■「祭礼道」はどこにあるのか?

 

 江戸時代、古河城下町の中心部であるこの場所に御仮屋が設置され、お雀さまのご神体が祀られました。

 

古河宿は五街道のひとつ。

日光道中の21宿のうち、江戸から9番目の宿場町で、古河城の城下町でもあります。

この大きなまちを守護するお雀さまのご神体は、まちの中心となる場所に大祭期間中は鎮座したのでしょう。

 

 江戸幕府最大の実力者“土井利勝”が16万石で古河城に入ると、街の発展により、従来の武家屋敷だけでは家臣を収容しきれなくなりました。城下町は東に拡張され、足軽屋敷が建設されるようになりました。やがて城下の拡大と縮小によってその足軽屋敷が整理されると、この屋敷沿いに祭礼道が整備されたようです。

出典:国土地理院 迅速図古河町(明治17年作製)を加工して作成

※この地図から推察される「祭礼道」を点線と実線で表しています。

現在、この歴史に存在したバイパス道路「祭礼道」の痕跡は、始まりと終わりが

「原町口」と「横山口」(*注1) として、石碑とともにその場所を示しており、実際に確認することが出来ます。 

注1 :[横山口の石碑は横山町二丁目と松並二丁目のあいだの信号機脇にあります。祭礼道は、この二つの住居表示の境に沿ってあったといわれています]

 

また、祭礼道は、

①四季の径沿いを線路沿いに進んだ

②もっと東口側を回り込んでみずほ銀行跡地の後ろを進んだ

という2つの説が存在するようですが、現在の地図上で一本の道として特定出来るほどの定かな資料は残っていないそうです。

“推察される祭礼道”

 

土井利勝が統治していた時代の足軽屋敷跡は、祭礼道周辺に多く配置されていました。

赤の実線は祭礼道があったと確定できている道、点線はおそらくこの道ではないかといわれている道です。ただ、その痕跡は、駅周辺を含めて、途切れ途切れではありますが、祭礼道の面影を残す細道は現在も残っています。

 

■日常のひと時に歴史を想う

普段何気なく通っている道にも、古くからの歴史が凝縮されているかもしれません。

少しでも興味を持ってくださった方は、ぜひ、遠い歴史の彼方に、華やかに賑わった古河城下の街中の時間に想いを馳せながら、「原町口」と「横山口」までの周辺道路を散策してみてくださいね。

 

お話  : 古河歴史博物館 立石尚之館長

参考文献 :『古河郷土史研究会 会報第37号』

 

(取材:ゆきらこ)

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こがキラ photo クラブ 3 期生

こがキラ photo クラブ 3 期生。生まれは北陸。丸い餅が主流の文化圏から四角い餅が主流の古河に嫁いで 20 年。3 人の子育てを経ながら 3 代続く左官屋嫁として邁進中。深い歴史の記憶が横たわる古河の暮らしや、そこに暮らす魅力的な人々をウォッチングしていきたいと思います。

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